「――私ね。多分、癌なんだ。乳がん」
七海の口から予想外の答えを聞いて、凛太郎の脳みそは一瞬、活動を停止した。
入社早々、営業部の先輩である若生から、新入社員の歓迎会の時に「彼女、有名人やで」と阿賀川七海のことを知らされたが、その瞬間は凛太郎25年の人生で初めての”一目ぼれ”であった。阿賀川七海は確かに美人である。しかしそれ以上の『何か』を凛太郎は強く感じ、強力な引力に吸い寄せられるかのように惹かれていった。
だが同時に、あまりにも相手が高嶺の花過ぎるとも感じていた。かたや会社のアイドルでチーフデザイナー。仕事は抜群にできて人望も篤い。それと比べて自分は…営業成績は常に最下位争いばかり。不思議と社長を含むまわりの人に愛されているから社員を続けているだけで、普通ならいつクビにされてもおかしくないはずだ。人としての格差がありすぎるという理由で、凛太郎は七海に対して、自分の思いをうち開けることはしなかった。どれだけ苦しくても、このまま社内に大勢いる「阿賀川七海ファン」のうちの一人のままでいいと思っていた。
ところが今回、突然の七海の退社の噂を聞いて、七海と会えなくなるのは絶対に嫌だという思いが、この遠慮の気持ちを打ち破った。もし彼女が本当に会社を辞めるのなら、自分の思いを伝えよう。本来、なぜ営業マンを続けられているのかわからないほど奥手である凛太郎にとって、この決断をするだけでも実に膨大なエネルギーを使ったのである(少なくとも本人はそう感じていた)。
だが今、凛太郎は心底後悔していた。自分の惚れた腫れたという感情だけでしかモノを考えていなかった己れの浅はかさが、心底憎かった。決して体力に自信がある方ではないが、健康体である凛太郎にとって「癌」という言葉は新鮮ですらあった。それほど凛太郎の自分史において馴染みのない言葉であった。自分が思いを寄せている相手は、まったく予想外のものと、おそらくは大いなる深刻さをもって戦っていたのである。
「……」
凛太郎はなかなか言葉を発することができない。
「ごめんね。リアクションに困っちゃうよね。
…胸に…しこりがあってさ。今度、きちんと検査するんだけど、ほぼ間違いないでしょうっ、だって」
「…そう…ですか…」
「…乳頭にね。少しでも癌細胞があると、全摘出なんだって。全部取っちゃわなきゃいけないの。」
「…」
「私、しこりの場所がね。乳頭に近いんだ…」
予想の何倍も重たい話だった。てっきり「今の自分のスキルに満足がいかなくて…」とか、「実家の都合で…」とか、そういった話を予想していたのに。
七海の目には涙が浮かんでいる。
凛太郎にも、七海の不安と恐れが痛いほど伝わる。
ドクン。
凛太郎は自分の心臓の鼓動が異様に大きく感じた。凛太郎の脳内を、今まで経験したことのない感覚が襲う。
ドクン。
『要《い》らぬぞ』
「うっ…」
凛太郎は下を向いて頭を押さえる。夢の中で頭の中に響く、あの声だ。
『手術も検査も受けんでよい。なぁ、凛太郎よ』
なぜか分からないが、この声が言っていることが正しいということには確信が持てた。
「検査は…受けなくていいです」
「…え?」
「検査を受ける必要はないです。心配いりません」
「…なんで?」
凛太郎は、自分でも自分が何を言っているのか、さっぱり分からなかった。
「なんででもです。検査はキャンセルしてください。」
どうしてそこまで断言できるのか、凛太郎本人も全く分からない。が、頭に響く声のとおり、検査は不要だという絶対的な自信がどこからともなく湧いてくる。
「何言ってるの…?どんな…何の根拠があるの?」
根拠だの理由だの言われても、凛太郎本人も説明がつかないものは、七海に説明ができるわけがない。ただ一つ、自分が七海のことを心底大切に想うがゆえに、検査も手術も必要ないという『事実が分かる』のだということには、何となく確信があった。
「…僕は…はじめてお会いした時からずっと、阿賀川さんのことが好きでした。」
「…は?」
「だから、阿賀川さんのことは分かるんです。検査はいりません。」
凛太郎は、われながら最悪の告白だ、と思った。
「…全ッ然意味わかんない。」
七海の混乱と感情の高まりもピークに達する。当然である。
「どういうこと? …今わたし、本当に、本当に心がつらい時で…」
七海の声がつまる。
「そういう時に、こんな… こんなに感情が乱れるようなことを次々に言われると、私は…」
七海の目からは涙がこぼれ落ちてしまっている。
「葛原君、ホントにひどい。私が精神的に大変だから、便乗して告白すれば上手くいくと思ったの?それも若生さんからの入れ知恵?」
「違います!そんなことは、誓って絶対にないです!」
「…葛原君。あなた、男のクズよ!!!」
凛太郎は自分の心臓が押しつぶされるような感覚を味わった。というより、七海の言葉が巨大な槍となって凛太郎の心臓を貫き、絶命に至らしめた(ほどの感覚を味わった)といった方が近い。今まで味わったどんな苦しみも、比較にならないものだった。
『ハハハ。頃合いかの』
ドクン。
頭の中の声とともにまた心臓の鼓動が大きく響き、凛太郎は自分の視界が徐々に暗くなっていくのを感じた。
『代われ、凛太郎…』
クラッ。凛太郎が白目をむく。
バタン!と言う音をたてて、凛太郎はそのまま店のテーブルに頭を打ちつけ、突っ伏してしまう。失神してしまっているのである。
「ちょっと、大丈夫?葛原君?」
凛太郎が気を失っていたのは、ものの5秒くらいであろうか―。
凛太郎は「カッ!」と急に意識を取り戻して顔を上げる。
が、何か様子がおかしい。犬歯が大きくなり、牙のように突き出している。そして何より…「葛原君、眼が…!」
凛太郎の目は、人間のそれではなくなっている。たとえて言うなら、爬虫類の目が近いだろうか。黒い瞳孔は縦長で、その周囲、人間で言えば白目に相当する部分は、吸い込まれそうに鮮やかな紫色である。
「おっと。なにせ久しぶりでの。この目では流石《さすが》に不味いか。」
凛太郎は「むー」と数秒間目をつぶって、もう一度開ける。ぱちぱちと瞬きをする。
「今度はどうじゃ」
凛太郎が次に目を開けると、先ほどまでの爬虫類の眼の要素はだいぶ薄れている。ただ瞳はいつもの凛太郎のこげ茶色ではなく、深い紫色のままである。
(おかしい。いつもの葛原君とは雰囲気が別人。何より、さっきの眼!人間の眼じゃないみたい)
七海は、目の前の光景に一瞬、自分の心配事を忘れてしまっている。
凛太郎がニヤッと笑って口を開く。
「おぬしが、阿賀川七海とやらか。ふん、凛太郎にしてはいい趣味をしておるわい。」
「……??」
七海の頭の中は完全にクエスチョンマークだらけである。
「それにしてものぅ。惚れた女子《おなご》に振られたショックで気絶するとは、なんとも情けない奴じゃ。
…まぁ、おぬしには礼を言わねばなるまいな。おぬしのおかげで、こ奴と交代できた。」「あの… 凛太郎君じゃないの?」
「フフフ、凛太郎とは、しばらく交代じゃ。今日一日はこの肉体は儂が預かる。心配せずとも明日の朝には返してやる。『かいしゃ』とやらの仕事は、面白くなさそうじゃからの」
「…誰なの、あなた」
「おぬし、先ほど儂の名を呼んだではないか。」
「え…?」
「クズ、と呼びおったであろう。人間に呼び捨てにされるのはちと腹立たしいのう。そもそも、今のこの国の人間には、儂らを敬うものがあまりに少なすぎるわい」
「はあ?」
「…さてと。少々長く寝過ぎて、腹が減っているのでな。腹ごしらえをさせてもらうぞ」
凛太郎の上半身が巨大に膨れ上がり、ビキビキビキ…と不気味な音を立てながらみるみるうちに変化していく。角が生え、口は大きく割《さ》け、先ほどまでとは比べ物にならないほど鋭く巨大な牙がのぞく。よく見ると、左目を縦断する大きな傷跡がある。
「動くなよ。七海とやら。おぬしは美味そうじゃ」
さっきまで『凛太郎だったもの』の影におおわれ、七海の顔は恐怖にひきつった。
「…龍…?」
「いかにも。我《われ》は九頭龍。クズ“様”とでも呼ぶがいい」
先ほどまで凛太郎《《だったもの》》は、瞬く間に大きな口をガバッと開け、七海の上半身に食いついた。
「いただきます」
七海は、自分が龍に食べられる『ガブリ』という音を聞いた。
(つづく)
炎のような光のような二体の狼のうち、吽形《うんぎょう》だった方は「グルル…」と低いうなり声を上げた。阿形《あぎょう》だったもう一体は「ウオーーーーン!!」と大きく吠えた。空気がびりびりと震える。「クッ…。ガチもんの神獣が二体か。これほどの霊力を隠して石像に化けてやがるとは…」虎柄の服の鬼は棍棒を構えて立ち上がるが…「レミッキ。今日のところは見逃しといてやる。後できっちり追い込みかけるから覚えとけよ」虎柄の服の鬼はそう吐き捨てると、煙のように姿を消した。「アロン、ユマ。もういいわよ。ありがとう。せっかく久しぶりにこの世に顕現(けんげん)したんだから、お散歩する?」シスター志良堂からアロン、ユマと呼ばれた二体の狼型の神獣は、喜んでいるかのようにグルルと鳴きながら体をシスターとレミッキに擦り付けた。「た、助かった…」安心して気が抜けた七海と凛太郎の二人は、魂が抜けたようにぺたん、とその場にへたり込んだ。「なんだか、今日一日で寿命が5年は削られた気がするわ… ちょっと、凛太郎君。そろそろ起きなさいよ。帰りのバスに間に合わなくなるわよ」「それが… ただでさえ長い距離を歩いたうえに、九ちゃんがあんな無茶な戦い方するもんですから、体が限界で… あのー、七海さんにおんぶしてもらうわけにはいかないですよね…?」「アンタねぇ、人をなんだと思って…」「心配いりませんよ。駅まで車でお送りします」 シスター志良堂が助け船を出す。「いいんですか?どうもすみません」「いえいえ。将来ウチの娘がお世話になるかも知れませんから。ね、レミッキ♡」「し、知らないわよ!」 レミッキは真っ赤になって腕組みし、そっぽを向いた。「お望みでしたら、東京までアロンとユマの背中に乗せてお送りすることもできますけど?」「「いえ、遠慮します」」 凛太郎と七海は、シンクロして掌《てのひら》を顔の前で振った。「あ、いっけなーい、忘れてた。車、車検に出してたんだった」今度も凛太郎と七海の二人は、完璧に揃ったタイミングで顔を見合わせ、同時に冷や汗を流した。♦ ♦ ♦「ぎゃあああひぃ~~~~~!!!」凛太郎と七海は二人、電信柱から電信柱へとものすごいスピードで飛びながら、奥秩父から東京に向かうアロン(阿形《あぎょう》の石像だったオスの神獣である)の背中で、振り落とされない
戦いのあと、レミッキが泣き出したのを見ていた七海と梅ケ谷が話している。「神に選ばれて守護《ガード》されるには、いくら偉人の生まれ変わりと言ってもそれ相応の対価が必要です。多くの場合は大病や事故に遭うなど、人生における大きな不運と引き換えに力を得ます。阿賀川さんも間接的に龍神に守られていることになりますが、思い当たる節があるのでは?」「まぁ、そうですね…」七海は少し顔を赤らめつつ、光の病気を何とかしようと奮闘しているときに自分も乳がんになって頭を悩ませていたことを思い出した。「|守護されし者《ガーデッド》の能力は、被《こうむ》った不運の大きさ、言い換えれば捧げた分の幸運の量に比例します。 狙ったところに100%銃弾を命中させる能力だなんて、相当上級の力のはずです。かなり辛い過去があったのでしょう」♦ ♦ ♦「レミッキ」周りから私を呼ぶ声がする。レミッキはフィンランド語で『勿忘草《わすれなぐさ》』という意味だ。なかなか気に入っているが、多分もともとの名前じゃない。…これは、現実か。それとも、夢を見ているのか。ああ、昔の記憶だ。思い出したくもない、昔の記憶…。私は複数の中年の男たちに囲まれている。男たちの荒い息遣い。私の体を玩《もてあそ》んでいるのだ。男たちの舌が、体中をナメクジのように這いまわっている。その舌はいつのまにか、蛇のように先端が二つに分かれたものになっている。「レミッキ」「レミッキ」……ふと見ると、男たちの顔も人間離れしたおぞましいものになっている。蛇のようなトカゲのような、ワニのような… そうだ。「人間と竜のハーフ」と言った表現が一番ピッタリくるか。「じゃあそろそろ…」その顔の一つが、爬虫類の目をギョロギョロさせながら言う。「…君を食べてもいいかな」♦ ♦ ♦「きゃーッ‼」レミッキはベッドから跳ね起きた。冷や汗で体中がびっしょり濡れている。「あらー、起きた?また悪い夢を見たのかしら。大丈夫?」「ママ…」いつの間にか、ちちぶ子ども未来園の中だった。レミッキから「ママ」と呼ばれた志良堂美洸《みひろ》シスターが話を続ける。「こちらのお客様が、レミちゃんをおんぶして運んで下さったのよー。来る途中にたまたま出会ってお話ししてたら、急に気を失ったんですって?」「え、ええ、そうなんです。ははは」いつの間にか九頭龍の
七海と梅ケ谷が見守る中、凛太郎は、上空から襲い来る無数の銃弾に次々と体を貫かれていく。体はひび割れ、ボロボロと崩れていく。ついに顔までが崩れ、粉々になった体から切り離された頭部が地面に落下する。「嘘… そんな、嘘よ…」九頭龍凛太郎の頭がスローモーションでゆっくりと地面に落ちていき、地面に到達して「パリン」と砕け散る、その一瞬前に、七海は凛太郎がニヤッと笑ったような気がした。…真っ暗な闇の中。ここは現世《うつしよ》と同時に存在すれども交わらない霊界か、はたまた九頭龍の精神世界か。紫色の目とたてがみをした巨大な龍が、暗闇の中で凛太郎と同じ声色で話す。「|五ツ陽《いつはる》。おるか?」「へーーい」…その瞬間。現実世界では、七海たちがいる現実世界では、たった今崩れて首が落ちたはずの凛太郎が、いつの間にか無傷でうずくまっている。ただ、その髪の毛は凛太郎の時の焦げ茶色でも、九頭龍の時の濃い紫色でもない。ダークブロンドというのか、アッシュゴールドと言えばいいのか、独特の風合いをした暗めの金髪である。「ま、ここはオレの出番っスよねー」アッシュゴールドの髪の凛太郎がつぶやく。普段の凛太郎とも、いつもの九頭龍凛太郎とも違う、垂れ目でどことなくアンニュイな表情をしている。(フン、いつもいつも眠そうな顔しおって)虚空から、普段の九頭龍の声が聞こえた、気がした。「|五ツ陽《イツハル》さんですか。私も見るのは久しぶりですね」「久しぶりですね、って言われたって…」『五ツ陽』と呼ばれた暗い金色の髪をした凛太郎は、いつもの老人のような口調とは違うしゃべり方でレミッキに話しかけた。「おーい、そこの外人の嬢ちゃん。早いとこ降参しなよ。俺が出てきたから、君に勝ち目はねーっスよ」「何を馬鹿な…」レミッキは内心、驚いていた。先ほど自分のサブマシンガンから放たれた銀の弾丸の嵐により、ボロボロに崩壊したと思ったターゲットが、髪の色を変えて何事もなかったかのように甦《よみがえ》ってきたのだから当然である。が、何とか平静を装いながらガチャッという音を立てて弾倉《マガジン》を新しいものに交換した。「何度でも葬《ほうむ》るだけよ」ドガガガガガガガガ再びの轟音とともに、今度は曲げた右腕で銃身を掲げ、レミッキは銃弾を上空に発射する。その弾たちは、またも空高くから一斉に、バラバラの軌道を
「志良堂《しらどう》レミッキ。日本での歌手としての活動名は、レミですね」「うぎゃー‼」当然一人で茂みに隠れているものと思い込んでいた突然横から梅ケ谷知《さとる》に声を掛けられ、思わず叫び声を上げてしまった。よく見ると、梅ケ谷は両手に木の枝の模型を持っている。茂みの一部に紛れているつもりらしい。(擬態…? この人こんなキャラだったのかしら)「Lemmikki(レミッキ、またはレンミッキ)という名前からおそらくフィンランド生まれ。戸籍上は、キリスト教系の孤児院、ちちぶ子ども未来園の園長・志良堂|美洸《みひろ》の養子ということになっています。高校卒業後、18歳で上京。ネットを中心に歌手活動を開始、今に至るわけですが、まさか裏社会で『死神』と呼ばれるスナイパーの正体が彼女だったとは…」「あ、あの~ 梅ケ谷さん、どうしてここに?秘書業務は大丈夫なので…?」「ご心配なく。今日の分の仕事はとっくに終わらせてありますので。あの龍は放っておくと何をしでかすか分かりませんから、心配で付いてきました」「はあ…」「そんなことより、始まりますよ。九頭龍の久しぶりの戦いが」「…」そう言う梅ケ谷の表情から読み取れたわけでも、声の調子からそう感じられたわけでもない。だが、七海には何となく感じるところがあった。(なんだか嬉しそうね、梅ケ谷さん)♦さて、七海と梅ケ谷の視線の先で。「…もう、遠慮なくいくわよ」レミッキはスナイパーライフルを構え直した。「おう、レミとか言うたの。いざ尋常に…」パァン!九頭龍凛太郎が言い終わる前に、レミッキは銃弾を放つ。 が、それはトカゲのような鱗で覆われ鋭い爪のある形へと一瞬のうちに変貌した、凛太郎の手によって難なくキャッチされてしまった。江島めぐみ狙撃(二撃目)の時と全く同じである。「まーったく、せっかく武士道をわきまえた女子《おなご》じゃと思うとったのに。南蛮にも騎士道精神というのがあるんじゃろが…」言いながら、九頭龍は掴《つか》んだ銃弾をポイッと投げ捨てた。「儂には銃なんぞ効かんぞ。諦《あきら》めて降参せい」「やっぱり、そうよね… こちらも時間があったからね。対策させてもらったわ」ちょうど弾を撃ち終わったレミッキは、ジャキンという音を立てて弾倉《マガジン》を交換すると、ガチャリとハンドルを引いてから再び戻した。パァ
『ちちぶ子ども未来園』は、埼玉県の秩父地方の山間部にあるキリスト教系の孤児院である。シスターの|志良堂美洸《しらどうみひろ》が、たくさんの子供たちと食卓を囲んで、食前のお祈りをしている。「おお、神よ。私たちをいつも見守り、導いて下さることに感謝します。この食事が神のための善を行う力となりますように。アーメン…」|美洸《みひろ》シスターは祈りの言葉を言い終わると、少し間をおいて「パンッ!」と乾いた音を立てて勢いよく合掌をした。「はーい、堅いお祈りは終わり。今日は裏の山でとれたイノシシの焼肉と猪汁《ししじる》よ。みんな、たくさん食べてねー♡」「やったー!!」年齢も性別も違う孤児たちが、一斉に猛烈な勢いで目の前に盛られた食事に飛びつく。キリスト教系の施設には“|清貧《せいひん》”といって、必要以上に贅沢を望まない考え方がある。だがこの『ちちぶ子ども未来園』は、「他の家庭を|羨《うらや》むことがないように」という美洸シスターの思いで、毎回栄養のバランスを考えつつ最大限豪華に、というのが食事の基本方針となっていた。「焦らなくても、お代わりは沢山ありますからねー。それはそうと…美洸シスターは、ふと窓の外に目をやる。「今日はもしかしたら、嬉しい再会があるかも知れない予感がするのよねー♡」♦ ♦ ♦ 光の入院している新宿総合病院を出た九頭龍凛太郎と七海の二人は、13時過ぎに新宿駅発のバスに乗り、2時間以上揺られて秩父にやってきた。見渡す限り山、山、山で、緑が目に|沁《し》みる。普段吸い慣れている新宿の空気とは別物のように美味しい空気だが、それを有難いと感じる体力の余裕が、七海には無くなってきていた。|顎《あご》が上がり、額には大粒の汗がにじんでいる。「ハァー… まったく、どんだけ歩くのよ。降りたところ、ホントに最寄りのバス停?」「いっつもパソコンと睨めっこばかりしておるから体が弱るんじゃ。昔の日本人なら新宿からここまで|徒歩《かち》で来ておるわい」一方の凛太郎は汗一つかいていない。今日は朝から九頭龍の人格だからなのだろうが…「あなた、そのペースだと明日凛太郎君に戻った時に筋肉痛で泣くわよ。 …それはそうと、いつの間に社長のOKもらったの?情報系企業が孤児院買収って聞いたことないわよ」「フン、龍神様のビジネスセンスを嘗めるなよ」そうこうしているうち
某日13時、東京都庁。白いコートに身を包んだ人物が、警護役であろう屈強そうな職員のエスコートを受けて、都庁最深部の知事執務室に通される。フードを|目深《まぶか》に被った顔は、依然としてよく見えない。「時間ピッタリですね… 都庁へようこそ。直接お会いするのは初めてですね」猛追する江島めぐみ候補を振り切り二期目への当選を果たした|尾池百合絵《おいけゆりえ》都知事が、執務室最奥のデスクから形ばかりの歓迎の挨拶をする。「死神さん、とお呼びすればいいのかしら?」書類仕事をつづけながら、目も来訪者の方を向けようとしない。「…」白コートの来訪者は無言のままである。尾池は続ける。「《《先生》》とケイトさんから、成功率100%の腕前だって聞いていたので、安心してお任せしたのですけど。私の聞き間違いだったのかしら」「…」「新宿駅の演説の後でも、いくらでも仕留めるチャンスはあったはずでしょ?あの女が世界の調和にとって邪魔になることは分かっているはず… 組織票で勝てたからよかったものの、とっても肝が冷えましたわ」「…」「だんまりですか。あまりおしゃべりはお好きでないようね。いいわ。どのみち約束は成功報酬のはずです。お支払いするお金はありませんので。お引き取り下さい」『死神』と呼ばれた白コートの人物は、ついに一言も発しないまま執務室を後にした。(ケイトのやつ…)成功報酬だという話は、今日初めて聞いた。♦ ♦ ♦同じ日の正午。「…と、いうわけで、今回は心臓の病気と闘う、同じ孤児院の後輩・|光《ひかる》君との、2回目の動画でした~。またね!…はい、カット!ありがと、光君!」新宿総合病院の|阿賀川光《あかがわひかる》の病室で、18歳くらいの白人の女の子が美しい金髪をなびかせながら、自分で構えたスマホカメラに向かって手を振る。ネットで人気上昇中の歌い手・レミが、光への2回目の見舞いに訪れていたのだ。病室で動画撮影とは怪しからん、との声もあろうが、担当医の|乗本《のりもと》が理解があり、「拡張型心筋症と闘う子どもたちの情報拡散になりますし、光君の気晴らしにもなるでしょうから」とのことで、短時間の動画撮影はOKが出ている。それにしても、光とレミは随分と仲良く話すようになった。恐るべきは光の人たらしの力である。「こっちこそありがとう。えへへ、なんか夢みたいだなー